IL__そうだったんだ。あと気になってたのが、靴下の作品。この作品は絵画と光の関係についてとはまた別のコンテクストで作られてるような感じがするけど、現在に至るまで継続的に展示に出てくるよね。これは全部同じ靴下なの?
YT__いや、全部違う靴下。クレートの作品をやってる間に靴下が溜まってきたから、展示しようかなって思って、出してたんだけど。その時は何も考えてなくて、でもNADAのインスタに靴下の作品が上がった時に、コメントでこれが芸術なのかとか何だとか否定的なことが書かれていて… それに結構感動した。自分はこれをやってて大丈夫なんだって気持ちになったというか。
絵とかさ、椅子とかが、そこに存在してて、これは一体何なんだろうってぼーっと考えることについて作品を作ってるんだけど。それと、アートを売ったり作ったりする人がいて、それが歴史的にずっと受け継がれてきて、それも何なんだろうって。簡単にいうとアートについてとモノについてなんだけど、それが自分の中で二つに別れちゃってて、作品作るときにいつもこの二つがどう関係するんだろうってことを考えてて。最近またグリンバーグを読んで、その二つが繋がったんだよ。
IL__さっき抽象画描いてたって言ったけど、抽象表現主義の作家がやっぱり好きだったの?あと、他に影響というか、今の作品に影響を与えたムーブメントとかある?
YT__いや、全然好きじゃなくて。俺はマーク・ロスコとかバーネット・ニューマンとか結構無理で。あーゆうのインチキだよな、とか思ってたからさ。でも、マイケル・フリードって人がいて、その人がきっかけで逆張りみたいな感じでグリンバーグに興味持ち始めたから。今世の中で一般的に間違ってたって思われているような人、フリードもそうだし。
大学で教わったこととか、読んだりした本とか大体がフェリックス・ゴンザレス=トレスが良いっていうバイアスがかかったものが多くて。例えば、ミニマルアートだったら、カール・アンドレとかロバート・モリスがいて、彼らはドナルド・ジャッドと対立していて。こんな言い方は一面的だけど、ジャッドはグリンバーグっぽいというかフォーマリズムの延長みたいな作品だからさ。でも、同じようにミニマリストと呼ばれるモリスとかは、革新的な存在のように語られるんですよ。それまでいわゆる網膜的だった芸術がもう少し身体へと広がって、開放するというポジティブな面でジャッドよりモリスとかの方が良いって言われているような感じ。あと、70年代とかはいかにダン・グラハムがジョセフ・コスースより良いかっていう論調が強いと思っていて。それも、美術的な概念とかよりも外の世界に目を広げたから、ダン・グラハムは.. 偉大とされているんじゃないか、とか。
俺は、ジャッドとかコスースの方に興味があって。なんかひらかれてないっていうのがすごいいいなって。
IL__ひらかれてない?
YT__何が言いたいかっていうと、それから最終的にロバート・スミッソンとかゴンザレス=トレスとかが出てきて、彼らはやっぱりひらいていったわけじゃないですか。トレスはみんなの家のベッドとか、その場じゃないとこに目を向けさせたわけじゃないですか…作品を使ってみんなが想像力を働かせられる場所に誘導するというか。それは素晴らしいなと思うし、当時は必要だったんだろうなとも思う。でも俺は、それが嫌で。なんというか、今みんなひらかれすぎだし、全部考えることもやることも社会の中で共有できる、換金可能なものにしないといけないというか、共感をベースにしてる。
俺そうゆうのが嫌だから… 例に過ぎないけど、ジャッドとかコスースとかは本人にしかわからないような、自分の中で完結している方に行ってしまってたから、あまり良く言われないのかもしれないけど、俺はすごいそれが必要だと思っていて。もうちょっと自分にしかわからないようなものを見せたりしたいし。アートワールドの方がなくなっても、一人でやり続けてるかもしれないな、ってそういうような物の方がいいって思う。
俺の制作は存在することに、なんの前提がなくてもできる、これから先俺が一人生きていたらできるようなことをしているつもりがあって。大体いまいわゆる”コンセプチュアルアート”って呼ばれるものって、さっき話したアカデミックアートのようなもので、ホワイトキューブっていうキャンバスみたいな前提があって内容を入れ替えてるだけのものだから。なんか、嫌だなって。だから俺はそうならないように作ってるんですけど。
あと、ハイデッガーがものの遠さみたいな話していて、美術の支持体の話と一緒じゃんってなったんだけど.... 何だっけ...(2分沈黙) ちょっと思い出せないからいいや。
IL__ハイデッガーの話すごい気になるんだけど。(笑) 思い出したら教えて。
今回im laborでやる個展に出すものの中に椅子のパーツがプラスチックバッグに梱包された作品があるけど、その”コンセプチュアルアート”として見られないようにするためには、レディメイドではなくて作った椅子を展示するとかそういった意識はあった?例えばペーター・フィッシュリ&ダヴィッド・ヴァイスの作品を見た時、最初レディメイドだと思い込んでたのが、実際は全部作られたもので。その瞬間やられたなってなったけど。
YT__椅子の作品「IKEA ‘Marius’ stool BK 2021025」は複製なんだけど、そこの複製する過程の意味合いが強くって。フィッシュリ&ヴァイスは85%ぐらいな気がする、複製のクオリティが。俺はそこに造形的な良さみたいなものを感じ過ぎたかも、手作り感みたいなのが少し残ってて。だから俺の椅子の作品では95%ぐらいは再現したくて、実際に見たら93%くらいかもしれないけど。
学生の時作った絵画を複製した作品もそうだけど、一瞬の時の椅子を作りたかったんだよね。椅子は存在し続けてるし、絵も存在し続けてる。でもその中から型が取られた瞬間なら、時間が奪われた状態になるから。それを前は絵でやっていたけど、絵である必要はないかなと。椅子から時間を取り去った状態を作りたかった。
IL__今回im laborでやる個展の作品について話聞いてもいい?
YT__今回の展覧会は大きく分けて二種類の作品で構成されています、一つはホワイトキューブやアートワールドみたいな大きな支持体と言えるようなものへの考察についての作品。もう一方は、もっと小さく具体的な椅子という物体を通して、アート作品になりうるオブジェクト全般について記述した作品。