IL__今回の展覧会タイトルについて話を聞かせてもらえますか?
IN__今回の展覧タイトル「Crybaby」を決めるにあたって、自分の個人的な歴史、つまり、自分が育ってきた過程で聴いたり見たりしたもの、いろいろな意味で私のアイデンティティを形成したものについ考えました。例えば、「Crybaby」で展示している作品のタイトル「H.I.M.mmm(my baby's got a secret)」は、パワーパフガールズの敵役の悪魔「HIM」を参照しました。HIMは高い声をしていて、尖ったサイハイブーツとピンクのフリルとフワフワのスカートを着ています。リミックスされたマドンナの曲「Secret」のコーラスと一緒にフェイドアウトしていきます。昔はどんな音楽を聴いていたかで自分の出身地の特定の地域社会を示していたかもしれませんが、私はインターネットと共に育ったので、私が幼少期に吸収した文化的素材の多くは多様性に溢れ、グローバルなものでした。
当時、私は自分が好きだった多くのキャラクターや物事に過度な親近感を抱いていて、それと同時に私たちの間に冷たさや距離感も感じていました。例えば、ロンドンのカトリック修道院学校に通う10歳の白人の少女であった私とウータン・クランとの間にどんな共通点があったと言うのでしょうか? ウータン・クランに憧れる自分と、現実の自分、ミクロとマクロを往来することで生じる不協和音。インターネットはこのような心理的すれ違いを生み出すように思います。私は、自分が好きだったアーティストやミュージシャン、アニメや漫画のキャラクターの多くを、自分が乗り移ることのできるアバターとして見ていました。言うなれば、ロールプレイングゲームのようなものです。キャラクターに乗り移ることによって、普段自分では触れることのできない、隠れた自分や、精神を解き放つことができるように感じていたのです。大人になった今、私は自分の絵を同じように見ています。絵画は自分の感情を注ぎ込むことができる器として存在します。自分の感情を注ぐことで、絵画自体も感情的に何かを返してくれるのです。
また、ここ2、3年はセルフケアについてよく考えていました。生産的なものや社会的に受け入れられるものだけでなく、自分のすべての感情を肯定することの重要性についてです。 特に女性にとっては重要なことだと思います。というのも、私たちは、感情は自分を縛る弱点であると教えられているからです。身体的、感情的な本能は、女性らしさと結びついていると思われることが多く、感情的になると「ヒステリー」と揶揄されることがあります。これは女性蔑視であると同時に、人間は生産的な機械の歯車でなければならないという能力主義的、資本主義的な考え方にも由来しているのではないでしょうか。感情は、どれだけ生産的、有用、あるいは社会的に受け入れられるかによって、「ポジティブ」または「ネガティブ」に分類されます。本来、感情は、私たちの心と体が必要なものを教えてくれる、貴重なガイドなはずです。「Crybaby」というタイトルは、このような考えや感情から閃きました。絵を描くとき、私たちは自分の直感を信じる必要があります。直感を信じるということは、自分自身を知ることでもあります。それはとても肯定的なことであり、画家であるためには、自分自身をとても大切にしなければならないと思うのです。
IL__初期の作品から、カトリックのイメージである聖心、切断された四肢、アニメのキャラクターや胎児など、非常に象徴的なモチーフを使っていますね。それらのイメージはどこから来たのでしょうか?
IN__何年も前から、日常的にイメージを集めていて、ノートパソコンのフォルダーにカテゴリー別に保存しています。新しい絵画を制作するときには、時間をかけて、作品の方向性や効果、感じ方について書き出します。それからイメージを集めて、それぞれの絵に大まかなグループ分けをしていきます。周りにイメージやメモを置いておくこともありますが、最終的には自由にイメージを浮かび上がらせていきます。
私は非常に鮮明な夢を見ます。夢の中では、決まったキャラクター / モチーフが繰り返し出てきます。そのキャラクター / モチーフは夢ごとに姿は変わっているのですが、同一人物であるということを示す特徴を必ず持ち合わせています。そのキャラクターはいつも必死になって私に何かを伝えようとしているのですが、夢ごとにそのキャラクターには何かの能力の制限が課せられていて、上手く伝えることができません。ある夢では、そのキャラクターは丸くて赤い顔をした典型的なイギリス人の風刺画のような顔をした男で、私が泳いでいる湖に浮かぶ手漕ぎボートの上に座っていました。夢の中で、彼はまっすぐ前を見つめ、大笑いをしながら大げさにオールを動かすことしかできず、その姿はまるで漫画のキャラクターのようでした。
別の夢では、キャラクターはエルフのようなピンク色の胎児を流し台で洗っていて、私に直接話しかけてきましたが、彼は広東語でしか喋れず何を言ってるかはわかりませんでした。キャラクターが自由自在に動き回っている夢もありました。彼(キャラクター)は話すことはできず、ただ地下の研究室にある実験体に置かれている物体を指差しながら私を見つめてきました。その物体は、ゴリラとイギリス人の探検家ロバート・ファルコン・スコットの頭部で、彼らの脳みそを入れ替えるという実験をしている途中のようでした。この変幻自在のキャラクターは、私の潜在意識が私自身を投影したものではないかと思うようになりました。というのも、私は絵画の中で使用するイメージや画風、キャラクターを、自分が乗り移ることのできるアバターとして使用しているからです。
ローマ・カトリックの家系に生まれた私は、カットリックの思想を通して芸術と、芸術がポータル(別の感情領域に連れて行ってくれるもの)として機能するという考えを初めて知ったので、私の作品にはカトリックのイメージもよく出てきます。また、女性の聖人が泣いている図像や、悲しみをフェティッシュに表現されているイメージに影響されて、私の中で聖女の涙には癒しと力があるという考えが強く残っています。