IN__ポージングといえば、トンプソンさんのアーティストとしての活動は大きく分けて2つの役に分けられると思います。1990年代初頭から10年間、ロンドンを拠点とするアーティスト・コレクティブBANKの一員として活動していたミリー・トンプソンと、BANK脱退の2003年以降、ペインターとして活動するミリー・トンプソンです。BANKは共同体という意識が強かったコレクティブだと伺いました、メンバー全員で一つの筆を持って同時に絵を描こうと試みたこともあったそうですね。片や、現在のトンプソンさんはビーチに横たわる女性や不自然なポージングをした裸婦像などをオイル・オン・キャンバスで描くペインターとして、伝統的なギャラリーシステムの中で作品発表を行っています。BANKのメンバーとして活動していた時のこと、BANK脱退の背景、そしてその対極にあるといっても過言ではない絵画という非常に個人的な芸術活動に専念することにした理由について教えていただけますか。
MT__BANKはまだFrieze*2がアートワールドで力を持つ以前の美術業界に反発するエキサイティングなコレクティブとして、その背景に存在していました。アートギャラリーの増加と、ギャラリーがビジネスとして確立していく様子を目の当たりにしていた当時の私たちは、アートバブルの訪れに何となく気がついていましたが。それまでは、「プロのアーティスト」になりたいという自分達の願望(エゴ)を戯言として茶化して活動していたのが、急にその願望が現実味を帯びてきたことを認めざるを得なくなったのです。
BANKが面白かった点は共同作業にあります。私達はまるで全員で1人のアーティストであるかのように振る舞っていました。全ての作業を一緒にやることで、私たち個々の性質を1つの巨大な自我に吸収させようとしていたのです。その頃は、アーティストのプロ化の流れに逆らったような作品ばかり作っていて、当時のインスタレーションや彫刻作品はかなり投げやりなクオリティーのものでした。作品に書かれた/付随した言葉(ステートメント)、タイトル、プレスリリースがどのようにアート内で機能するかを考えるためにも、私たちにとっては重要な要素でした。
私がBANKを去ったのは、自分自身の考えを見つけたいと思ったからであり、男性グループの中に(BANKのメンバーの他のメンバーは全員男性であった)埋もれてしまった「女性らしさ」を探したいと考えたからです。脱退後の2003年から、2011年にリスボンのCaribic Residency(ポルトガル)での展示『Saucisson Chiffonaire』を開催するまで、自身の作品に本当に満足できるような展示は出来ていませんでした。自分が何をしたいのかを理解するのに長い時間がかかり、その過程でビデオや版画を試してみたのですが、その何年もの間、迷ったり、コラボレーションに憧れたりなど、惨めな時間を過ごしていたことを認めざるを得ません。最終的には、自分の声を見つけることは出来たのだと思います。その結果、今は太陽に照らされた女性像が在る風景画を描いているのでないかと。
IN__BANKの活動内容は、同時期にニューヨークを拠点に活動していたアート&ファッション・コレクティブ「Bernadette Corporation(バーナデット・コーポレーション)」(1994年設立)を想起させます。Bernadette Corporationはブラウン大学とコロンビア大学を卒業した若手作家のグループで、まるで本格的な企業のような活動をしていました。彼らはスーツを身に纏い、ブリーフケースを片手に、あたかもウォールストリート街に仕事に行くかのような格好をして毎日スタジオに通い、ファッションショーをしたり、精巧なエディトリアル写真を撮ったりしていました。BANKはイギリス人であるがゆえに、Bernadette Corporationと比べると、あまり洗練されていない、不機嫌なコレクティブだったかもしれませんが… アーティストであり美術評論家でもあるマシュー・コリングス(Matthew Collings)は、BANKを「不機嫌で、自己破壊的で、自意識過剰で、内省的な態度を持ち、批判的な知性と芸術システムの弱点を見抜く才能を併せ持っている」と評していますが、それは正確だと思いますか?
MT__はい、その通りです。
IN__Bernadette CorporationとBANKの間に共通点はあると思いますか?
MT__Bernadette CorporationとBANKの違いは、彼らは自意識的にかっこよくて、私たちは、かっこいいだけだったということですね。私が覚えている限りでは、当時の彼らと何の繋がりもありませんでした。彼らはとても 「ニューヨーク 」で、私たちはロンドンで局所的に活動していました。私はBernadette Corporationが作るものが好きでした。彼らは偽善の層や、プロテストや資本主義の周りを取り巻いている構造を観察するのが得意でしたが、BANKは「アーティストである」事をアートにすることに関心を持っていました。おっしゃる通り、 Bernadette はスーツを着てブリーフケースを持っていましたが、それとは対照的にBANKのスタジオは寒くて汚くて、私たちはオーバーオールに帽子、マフラーを作業着にしていましたし、スタジオはネズミなどの齧歯動物の巣になっていました。
IN__90年初頭にローンチされたFriezeが、BANKと同世代の若手アーティスト・コレクティブYBAs(ヤング・ブリティッシュ・アーティスト)を取り上げている様子をリアルタイムで目の当たりにしてどのように感じていましたか? YBAsのアプローチ方法はBANKとは対照的にあるように思いますが。
MT__そうですね。YBAsの作家って、たぶん色々なカテゴリーに分けることができると思うんですよ。だって、例えばアーティストのアビゲール・レイノルズ(Abigail Reynolds)はYBAsの一員とされていたけれど、彼女の作品を見ただけではそれはわからないと思います。「YBA」という言葉には均質化されたエッジがありました。YBAsとは、単にグループをまとめるために付けられた名称だと思います。同じ同世代の若手アーティストとして、YBAsのことを当時はあまり意識していませんでした。YBAsメンバーの全員がアートでお金を稼ぐという考えを受け入れていたわけではありませんが、実際に彼らは成功し潤沢なお金を手に入れました。それも全てダミアン・ハースト(Damien Hirst)という素晴らしい興行主がいたからです。
彼はとにかくお金を産むことに長けていた。ハーストの存在がYBAsとは何かを定義しています。これはあくまでも私が受けた印象ですが、YBAsのメンバーは当時から作品制作を外注していた傾向があります。当時はまだ、自分の作品を他人に作ってもらうという考え方は比較的新しいものでした。アメリカでは、ジェフ・クーンズが既にやっていましたが、彼は成功していたアーティストでしたし、外注するためには資金が必要であるというイメージもあったでしょう。
IN__若手アーティストの頃はお金がないはずなのに、どうして外注制作できる余裕があったのでしょうか?
MT__90年代初頭は、お金を払って何かをすることが非常に簡単でした。既製品を使ってアートを作ることは難しくなかったし、当時のロンドンの至る所に木工や金造屋があったので、素材も安く手に入りました。例えば、今でこそ巨大なスタジオで制作しているトレイシー・エミン(Tracey Emin)なんかは、自宅の寝室のテーブルの上で作品をつくっていました。自宅では細々した作業をして、ネオンチューブは外注制作する。他のYBAsアーティストも似たような感じだったと思います。当時、ホワイトチャペル*3のハイストリートにはネオンショップが沢山あって、ネオンはどこにでもある素材の一つだったので、それほど高価なものではありませんでした。あえて一般的によく使われている素材を作品に取り入れたことが、結果として彼らに有利に働いたのだと思います。
YBAsアーティストの作品は、写真では高級に見えるものが多いと思いますが、実際にその当時の作品を間近で見てみると、写真ほどではありません。何故なら、あくまで当時の彼らが手に入る範囲の素材を使用して作られた作品だからです。例えば、ゲイリー・ヒューム(Gary Hume)がデュラックス*4のペンキを使って描いた絵を思い浮かべてみてください。彼のキャリアのきっかけとなった「Door Paintings」は、写真では完璧に見えるかもしれませんが、彼の初期の作品はキャンバスや板に描かれていたので、実際にはペンキが経年劣化して変色してしまっています。近年の彼の作品の支持体はアルミになっていますが、彼自身が描いているとは思えません。
それからもちろん、ダミアン・ハーストは初期のチャールズ・サーチ(Charles Saatchi)に作品を買ってもらうことに成功しました。それは素晴らしいことす。ダミアンは魅力的な社交性を持ち合わせていたし、何よりサーカスのマスターを演じるのがとても上手かったのです。
IN__ハースト氏と面識があったのですか?
MT__ええ、挨拶する程度には。今は知りません。当時のロンドンのアートシーンはとても小さかったから、私たちはみんなお互いを認識していたし、ある程度プロとしてのジョークのような敵意があって、互いに喧嘩し合っていました。
IN__競い合っていたんですね...
MT__そんな感じです。実際にはBANKのメンバーは労働者階級ではなかったんだけど、その当時周りからは "プロの労働者階級 "だと言われていました。私たちは、適当にパーティに現れては、信じられないほど酔っ払って、本当に悪いことをしていただけの集団でした。実際、80年代後半から90年代前半のロンドンのアートシーンは、悪行と酔っぱらいによって定義されていたと思います。ほとんどのオープニングパーティーで、タダでお酒が飲めたので、オープニングをハシゴしていました。
IN__YBAsにもそういった破滅的な側面はあったように思います。1997年のターナー賞*5の討論会でのトレイシー・エミンの映像を見たのですが、夜な夜な友人と飲み歩いていたのか、泥酔した彼女は服についていたマイクを引きちぎって、「ママに会いに行くから」と出ていってしまいました。
MT__そうですね、YBAsはコレクティブとしてはかなり緩い集団で、各々が別々の目的を持っていました。YBAsがBANKと大きく違う点は、彼らは最初から「作品」を個々がソロのアーティストとして自分たちの名前で作っていたこと。それとは対照的に、BANKのメンバーは同じ筆を持って、時には一緒に絵を描いていた。ソロアーティストとしてのアイデンティティーがなくて、いつも4人か3人でした。BANKは有名になる程メンバーが脱退して行くコレクティブだったんです。