CG__あなたの作品を見ていると、身体は力場であるというあなたの思考を強く感じます。これは、ボクシングを始めたことが影響しているのでしょうか?
CP__リングに上がることは、“自分”が考える“自分”という幻想を忘れさせてくれます。戦う為には自分という幻想を拭って、自分を超える存在感を持った人格を作る必要があります。自分が思う自分という存在はリングに立っている瞬間はその人格に統合されています。ボクシングは自分にとって現実に触れる事ができる手段なのだと思います。リングで戦っている時、「この手は本物だ、あのパンチは本物だった」と感じる事ができるのです。
CG__その幻想と現実を行き来する感覚は、あなたがフェミ・ブルターレというキャラクターとして実際にリングに立つ様子を撮影した作品に現れていると思います。フェミ・ブルターレというあなたによって作られたキャラクターが現実世界で3度もボクサーとしてチャンピオンに輝いたという軌跡を撮影することで、フィクションとドキュメンタリーの境界線に挑戦しているように見えました。実際にチャンピオンになったことで、フィクションがいつのまにかノンフィクションになってしまい、それによってあなたはそれまでボクサーを演じていたのが、いつのまにかボクサーとして正式に認められるようになりましたよね。しかし、あえてフェミ・ブルターレとしてボクサーの活動をインタグラム等のプラットフォームで記録することによって、現実世界でクリスティーナ・プラナスとしてプロボクサーとして活躍することが出来る可能性を自ら断絶しているように私は感じましたが、実際にはどのような意図があるのでしょうか?
CP__その通りです。自分自身でも、フェミ・ブルターレとしてボクシングチャンピオンに実際なった事には驚いています。これほどまでに自分の芸術的意図を表現出来るとは着想当初は予想していませんでした。当初から作品の意図は明確にありましたし、フェミ・ブルターレとしてボクシングに一年間取り組むことは決めていました。しかし、その過程の中でいつのまにか彼女が自分の想像を超える存在なってしまったのです。その事実に気づいた時は時既に遅しというか…自分でも気づかない間に演じていたフェミ・ブルターレというキャラクターが私の影の部分を乗っ取ってしまったのです。私自身も何が起きてるのか把握できていませんでした。彼女は私自身なのか、それとも別人格なのか…とにかく自分にとっては非常にリアルな体験でしたね。変化と変容の必要性が、私の中からフェミ・ブルターレという人格を引き出したんだと思います。
CG__最近の活動について教えていただけますか?
CP__現在、モントリオールを拠点に活動するアーティスト、アダム・バサンタとコラボレーションしています。私のパフォーマンスが24時間ライブストリームされているプラットフォームを作りました。https://espacebrutale.live/in-formation からアクセスできます。
その他には、昨年からカナダ政府からの助成金を受けて、三部構成の映像作品の制作を始めました。三つの作品『欲望』『郷愁』『視覚』は互いにリンクし合っていて、『欲望』ではボクシングの経験を通して触れた、欲望の感情についてボクシングと映像双方に存在する「ショット」という概念の基探求していきます。『郷愁』では私の家族の歴史について探ります。この『欲望』と『郷愁』いう2つの感情的な要素が『視覚』へと繋がっていきます。現在は演技コーチや振付家、その他のクリエーターと共にワークショップを重ねながら、内容を詰めているところです。一度も会ったことのない父方の祖母を演じる為に、祖母の歴史や、1950年代の雑誌などのリサーチもしています。
今回の役作りのために、想像力と言語を身体化する方法を模索している過程で、日本の演出家であり作家でもある鈴木忠志氏が開発した鈴木メソッドという演技法に出会いました。この鈴木メソッドというのは、足踏みやスクワッドなどで下半身を鍛え、身体や発声を使って彫刻を表現したり等、舞台俳優の為の厳しいトレーニング方法です。このトレーニングによって俳優たちはキャラクターを保持するための身体力や、発声力、また、自分の核を移動させる方法を身につけることができます。
この鈴木メソッドをクロスポイントという演技トレーニングと組み合わせることによって、役作りを徹底的にやっていきたいなと考えています。
CG__あなたの作品は写真と強い関係があるように思いますが、写真、映像、インスタレーション作品等とあなたのパフォーマンス作品の関係性について教えてもらえますか?また、写真で記録をしていくという行為には、自分の身体とその能力がどのように変化していくのかを観察する為の意図もあるのでしょうか?
CP__写真は、目撃したり、日記を書いたり、記録する為に撮ります。また、観察と現実化を同時に行う装置の一部でもあります。私は、未来に起こることを予兆するようなイメージを作ったり、パフォーマンスを無意識にしたりしている自分がいることに気づきました。自分の腹筋を撮影したビデオやモノクロのパフォーマンス映像があるのですが、それは私がフェミ・ブルターレとしてボクサーになる未来を予兆していたのだと思います。何も考えずに撮影したイメージや架空のキャラクターが、現実へと繋がっていく過程は過去が未来へとすり替わっていくようで、とても面白く感じています。
イメージとそのイメージの製作者の間には大きな溝があります。イメージを生産し、そのイメージによって生産されてしまうというプロシューマリズムのサイクルに陥ってしまうのです。このサイクルからどうすれば抜け出せるのか?という疑問が、私の制作モチベーションへと繋がっています。現在制作中の映像作品『視覚』でこの問題に対して追求していく予定です。