IN__作品の多くは近年のアメリカ政治史を参照していますよね。赤・白・青の星条旗カラーで描かれていたり、『Star Sta』(2006年)では、賢者(『マタイによる複音書』に登場する占星術学者)に見える人物が、クシャクシャに分解されて星条旗の一部として描かれています。ドナルド・トランプ氏がアメリカ大統領に選ばれた2016年にカナダのギャラリーで開催されたグループ展『Make Painting Great Again』にも参加されていますが、2016年以降のアメリカ政治の急激な変化を考慮した上で、絵を描くことはその変化を抑制したり捉えたりするための有効な手段になるのでしょうか。
JF__湾岸戦争が始まった90年代初頭から、この国の権力構造に対して私は極めて批判的に考えています。私が抱く帝国主義やマッチョな家父長制への嫌悪感は、私の作品を見てもらえたらわかると思いますが、しかし実際の所、作品を通して政治的・概念的なところへとアプローチしようとしている意図はありません。絵画制作をする時、私は政治的な観点やコンセプトよりも自分の感覚的なところから始めます。筆が進み始めてから、絵を政治的な方向へと進めた方がいいなと判断した場合はそっちへ進めることもあります。
トランプの存在はアメリカにとって非常に災難であると言えますが、それと同時に彼の存在はこの国が直面している大きな問題を浮き彫りにしています。私は団塊の世代の終わりに生まれましたが、今この国が抱える問題の多くは団塊の世代に責任があると考えています。60年代に一世風靡したヒッピー文化の名残か、団塊の世代には傲慢さがある。私は同世代の人間と政治についての議論をすることがありますが、彼らに誰に投票するかと尋ねると、大抵はジョー・バイデンがその中間。非常に考え方が保守的なんです。そのくせ自分たちではその事実に気付いていない。1972年のジミ・ヘンドリックスのコンサートでブラジャーを燃やしていた自分たちを未だにカッコイイ存在だと思っているのでしょうか。それに、彼らの多くは今アメリカ国内で行われている進歩的な政治活動や抗議運動に脅威を感じているように思います。結局染み付いてしまった固定概念を取り払うことができないのです。
団塊の世代に蔓延した「望みは全て叶う」という思想は災い以外の何物でもなく、多くの人がいまだにその神話を信じて生きています。私はジョージ・ハリスンの絵を今まで何枚も描いてきましたが、その過程で、この「望みは全て叶う」という思想の過ちに気づきました。私がジョージ・ハリスンをモチーフとして面白いと思う理由の一つに彼がこの思想の過ちを象徴していると考えたからです。ハリソンは非常にスピリチュアルな人で瞑想やインドの神秘主義に陶酔していて、その反面、パーティーに参加しては不特定多数の女性と関係を持ち、信じられないほど贅沢な生活を送っていました。要するに、この「望みは全て叶う」という思想は、言い換えれば「私は神秘的でスピリチュアルな人間であると同時に金持ちのプレイボーイのように生きる事もできる」ということです。団塊の世代の人間の多くにはそういった矛盾や偽善の思想が刷り込まれていて、更に災難な事にそういう彼らがこの世界を動かしているのです。彼らには権力があり、富の大部分を所有し、その事実がこの世界/現状が変わることができない要因の一つなのだと思います。この国は自己批判性に欠いて神話の世界から抜け出すことのできない人たちの集まりによって運営されているのだと思います。
私の作品の多くはこの国に蔓延する妄想・強迫観念の文化、人間が持つ作られたイメージやブランド力が人間を支配することを主題に作られています。私は以前知り合いとオバマと彼の経歴に関しての議論を交わしたことがありますが、多くの人がオバマのクールな側面、例えばJay-Zと友人であるとか、そういう事しか認知しておらず非常に驚きました。Jay-Zとつるんでいるのだからオバマはクールに違いないと勝手に判断するのです。実際にオバマはブッシュ政権が成し遂げられなかったことをしたのは間違いないのですが。何が言いたいかというと、イメージや表層的な要因だけでその人間を判断する人が多いということに興味を持っています。
IN__ピエロのつけ鼻が描かれている作品が多いですが、普段の作品と比べるとあまり風刺的な要素が内包されていないように感じます。つけ鼻をモチーフとして使うようになったきっかけを教えてもらえますか?
JF__ペインターとして常に魅力的な画面を作る方法を探しています。ピエロの鼻は画面の中でのアンカー的な立ち位置として登場させています。昔、ペインターのバーネット・ニューマンが自分で描いた赤い絵を血液に見立てていたという文献を読んだことがありますが、その感覚と近くて、私にとってのピエロの赤いつけ鼻は血に染まったスポンジのようなものです。
IN__先ほど、一向に変化のない現状(政治・差別)を目の当たりにしてシニカルになってしまうと言っていましたが、今コロナパンデミックやBlack lives Matterの抗議活動が盛んに行われているこの不安定で変化を求める社会の中で、風刺的な作品を作ることに関してどのように感じているのでしょう?
JF__私の描く風刺的な絵画は抗議そのものというよりも、その出来事の目撃者であると捉えています。これまでの私の作品は非常に悲観的で、過度に誇張されたように見えていたかもしれませんが、現実の世界が私の絵画以上にめちゃくちゃになってきてしまって、私の作品に対して共感を覚える人が多くなってきているように感じます。そんなことは無いと信じたいですが。
私が特定のポップアイコンや有名人等を作品のモチーフとして使用するときは、そのモチーフが持つ意味を深く掘り起こしています。私はアンディー・ウォーホルが描いた有名人のポートレイトシリーズの大ファンなのですが、彼の手放しに描かれているイメージを受け入れたり、感情を度外視して文化を反映したような作品を作る手法は、あまり自分には合っていないように感じています。私は過度な活動家でも、政治的でもありませんし、結果として私の作品が現代社会の問題を反映しているだけです。
IN__目撃者になるためには、自身が社会の枠外、すなわちアウトサイダー(部外者)の立場に立つ必要があると思います。アンディー・ウォーホルは極端に自分が社会の中心的存在、インサイダー(当事者)になってしまったことによってある種の疎外感や息苦しさがあったのではないかと思います。その結果、彼は枠の外へとまた戻ろうとしましたよね。アーティストにとって内側と外側のバランスを見極めることは非常に大事であるように感じますが、‘内側’とコミュニケーションをとって、自分の作品を社会で発表することは、現代のアーティストの仕事の内の一つであると思いますか。実際に自分の作品がギャラリーや、公共の場で多く発表され、アーティストとして自分がインサイダーよりになってきたという事実についてはどのように感じていますか?
JF__そうですね、実際、ここ2、3年で作品を発表する機会は増えてきたように思いますが、長い事アウトサイダーというか社会の外側にいたので、その感覚は自分のDNAの一部のように染み付いてしまっているように感じます。私が住んでいる町は本当に人が少なく、コロナパンデミック以前も、私は所謂“シーン”を作っているアーティストではありませんでした。ですが、“シーン”を作っている人たちの知り合いは多く、私自身は内側と外側の境界線をフラフラしているような感覚です。私は自分の事をアウトサイダーアーティストとは思っていませんし、世俗から完全に切り離されているとも思っていません。しかし、同時に私のライフススタイルは現状身の回りにあるもので完結しています。それに、有名アーティストのライフスタイルにも、セレブの暮らしにも興味がありません…アーティトとして人に見てもらう前提で作品を作ることは重要なのかもしれませんが、本音を言うと、アーティストは誰にも見せずに、誰の意見も聞かずに作った方がいい作品ができるのではないかと思っています。
IN__90年代前半以降から風刺や皮肉を主題に作品制作をされていますよね。作品の多くは過度に誇張され狂信的に描かれていますが、その“過度”であることが皮肉をより引き立てクールに見せる要因であるようにも思えます。またあなたの作品を見ていると、クリス・マーティンの作品にもあるような、スピリチュアルで魔術的で、カオスマジック的な印象を受けますが、それは意図しているのでしょうか?
JF__そうですね。力のある作品は、ある程度スピリチュアルでカオスマジックの要素が内包されているべきだとは思います。クリス・マーティンもそうですが、ドナルド・ジャッドもそんな感じではないでしょうか。ドナルドの作品は、極端で狂っている反面、その要素が整然とした形で画面に描かれている。本当に面白いアーティストが作る作品には、見る人に魔法をかけれるような力があると思うんです。アーティストは自分が持っている執着や脅迫観念を表現することのできる、自分で作り出したミクロの世界の中で生きようとする傾向があります。それはアーティストとしては至極普通のことで、ピカソやロバート・クラム、ルイーズ・ブルジョワのようなアーティストにもその傾向が見られます。彼らは各々が自分で作り出した世界で機能している。今、世界的に情勢が不安定な中で、一人一人が政治に対して議論する事を求められています。しかし、アーティストとしてその議論やそれに対しての思想は、個人的なミクロの世界へと吸収すべきだと考えています。そして、そこで蓄積され凝縮された思想が良い作品を作るために意味のあるものへとなっていくのでしょう。制作を通して目撃者となり、うまくいけばその作品に共感を覚える人がいるでしょう。それがアーティストとしてできる仕事だと思っています。
IN__基本的に油絵やアクリル絵の具を使って絵を描かれていますが、鉛筆や木炭、アルミ箔などの素材も使うことがありますよね。個人的に90年代初頭寝袋を支持体として使って描かれた作品が気になるのですが、この作品についてお話を聞いてもよろしいですか。
JF__単純に寝袋が安かったからなんですが、チャックをつなぎ合わせると大きくできるので、使い始めました。結果、寝袋の表面の材質が面白くて通常のキャンバスだと出せない質感を表現できました。MOMAに所蔵されているロバート・ラウシェンバーグの『Rauchenberg’s bed』という作品にも影響を受けましたね。
IN__Dr. DreがN.W.A.にいた頃のインタビューを読んだことがあるんですが、その記事には、彼は制作中、自分が尊敬するプロデューサーやミュージシャンの作品は型にはまって影響を受けすぎてしまうため、参照しないようにしていると書かれていました。画家のジョー・ブラッドリーとの対談記事の中で、あなたはフィリップ・ガストンのことを追い抜かなければいけない“偉大な影”であると話していましたよね。ガストンの作品の中で、「自分でやりたかったな。」と感じたものはありますか? また当時若手アーティストだったあなたはどのようにして”偉大な影“のフィリップ・ガストンと自分の作品との差別化を測ろうと試みたか教えていただけますでしょうか。
JF__ガストンの作品にはコミックが持つグラフィカルな物語性とニューヨーク・ペインティング・スクール・チョップが見事に融合されています。私が“偉大な影”に引っ張られない為、最初に考えついたのは独自性を作るために、イメージをより過激にしようということです。スキャナーズや遊星からの物体Xなど、80年代の古典的なホラー映画などからインスピレーションを得ました。そこから徐々に自分のスタイルを確立して、昔と比べると暴力的要素を過剰に組み込む必要性は薄れてきていると思います。
IN__ブラッドリー氏との対談で、あなたはレファレンスをバラバラとなった自分の身体に見立てていましたが、それは、そのパーツ(レファレンス)を拾い集めて一つに統合することで絵を完成させるという意味なのでしょうか? アプロプリエーションについてどのように考えていますか?
JF__アーティスト間でアプロプリエーションという手法は非常によく使われていると思いますが、私は特にその手法を掘り下げようと試みたことはありません。私がポップアイコンや政治家のイメージを使用するのは、アプロプリエーションというよりも、フランシス・ベーコンが特定の写真・イメージに固執して、個人的に解釈し、モーフィングして、絵画にいい意味でのアマチュア性を保たせようとした感覚に似ています。私はそれぞれの絵画にそれぞれの主題・問題を見出し向き合っています。その問題を明確にし、解決するために必要であれば、イメージに強弱をつけたり、違うアプローチをとることもありますが。基本的に描く前から大まかな完成予想図はあるのですが、それとは異なったものができる場合もあります。
IN__あなたの絵画に登場する人物やオブジェクトは、言い方は良くないですが、まるでふざけているのではないだろうかと思うほどエキセントリックに描かれていますよね。そのせいでアーティスト活動を始めた当時、アウトサイダーアーティストしてカテゴライズされることはありましたか? また、どのようにして自分の絵画のコンセプトを鑑賞者に伝えたのでしょうか?
JF__私は、『路上(オン・ザ・ロード)』で描かれているウィリアム・バロウズや『サムライ』でアラン・ドロン演じるジェフ・コステロのような、集団に属さないキャラクターに魅了されてきました…端から、亀裂が入っていくのを眺めているような。私の作品がどのように解釈されるかについては全く気にしていませんし、それは私の仕事ではないと思っています。